「掩体壕」調布の戦争遺跡巡りラン
この鯨のような建造物は、「掩体壕」です。
「えんたいごう」と読みます。
軍用機を敵の空襲から守るための格納庫です。
8月15日の敗戦の日を前に野川沿いの戦争遺跡巡りランをしてきました。詳しいルートはこちらのGoogle Mapをご覧ください。
世田谷区、特に西部地域は東条などの軍閥や岩崎などの財閥、歴代の首相などの政界の邸宅があったことから、敵の標的になりやすい軍関係の施設は作られず、病院など標的になりずらい施設が多かったため、ほとんど空襲の被害を受けていませんが、お隣の調布は、国領の不発弾騒ぎからも分かるように、飛行場や無線基地などを標的にしてしばしば空襲に見舞われています。今の平和を再認識するためにも、今に残る戦争遺跡を訪ねてきました。
いつも通り野川を遡ります。中央道のガードをくぐり、しばらく行った深大寺と天文台の間の大沢の台地上には高射砲の台座が今も残っています。1943年(昭和18)に首都防衛のために180名を越える兵士により構築されました。戦後、三鷹市長を勤めた鈴木平三郎氏がこの陣地を買い取り、福祉施設として利用するかたわら現状のまま保存してきたものです。
調布飛行場を臨んで半円を描くように6基の高射砲が備え付けられていたそうですが、老人福祉施設を作るときに南側の2基が壊され、現在は「椎の実こどもの家」という保育園の庭に2基、隣の駐車場脇に2基現存しています。
保育園に見学をお願いしたところ、忙しいにも関わらず保育士さんが案内してくれました。その保育士さんによると、たびたび米軍の空襲もあり、4名の兵士が亡くなったということで、8月15日に部隊の方々が慰霊祭を執り行っていたそうです。しかし、最近は高齢化が進み途絶えているとのこと。でも、ちょうど私が訪れた日の午前中にも慰霊の方が訪れたところだそうです。
そこから調布飛行場の北東角の武蔵野の森公園の掩体壕に向かいます。
敗戦前年の1944年(昭和19)頃に動員された学生や住民によって30基造られましたが、いずれの掩体壕も小型機用のもので、現在4基(はっきり分かるのは3基だけ)を残すのみとなっています。そのうちの2基がこの公園に保存されています。
1号掩体壕は、市民の努力で保存が決まり、今年整備されました。内側には崩落防止のために発泡剤が充填さてれいます。横に「飛燕」のブロンズと説明版があります。
2号は、都道の計画線上にあるそうで、将来は取り壊される運命なのでしょうか。
武蔵野の森公園の「展望の丘」は飛行場が一望にでき、のんびりセスナ機が離発着するのを眺めるにはいいところです。北側には排水路の玉石水路が残されています。
人見街道を走り、多磨霊園に入ります。入口からすぐの多磨霊園の3、4地区に調布飛行場の「飛燕」が隠されていたそうで、米軍機の機銃掃射が何度かあったとのことです。正門からの中央通り、名誉霊域の山本五十六や東郷平八郎のお墓のそばにある噴水塔の土台に、機銃掃射の痕がいくつか残っています。
西武多摩川線に沿って下り、国道20号手前の白糸台小学校の正門前に工場があります。実はこの工場は掩体壕の上に作られており、半地下の構造になっているそうです。見学させてもらおうと思ったのですが、終業時間を回っており外観を見るにとどまりました。
20号線の西武線の高架の向こう側に最後の掩体壕があります。以前は畑のなかで資材置き場として利用されていましたが、現在は保存を前提として調査、整備されているようです。
ここからは20号線を東京方面へ。途中、味の素スタジアム前の東京オリンピックマラソン折り返し地点を見て、先日不発弾処理で大騒ぎになった国領に向かいます。
多摩川住宅の手前の崖線上に東京YWCA国領センターがあります。ここには、外務省情報局弘報室分室が置かれ、多摩川向きにアンテナが張られ、海外の電波をキャッチしていたそうです。1945年(昭和20)7月26日にポツダム宣言を傍受した歴史的施設ですが、いまはそんな面影はまったくありません。
そのあと、国領のジューキ本社へ。1938年(昭和13)に「東京重機製造工業組合」と称し、小銃等の武器製造の為に設立された会社です。 戦後は武器製造は中止され、現在では工業用ミシンのトップメーカーであるのはご存知の通り。この地で小銃が製造され、前線の兵士に供給されていたのです。今では工場も取り壊され、操業当初に祀られた「重機神社」も、元あった場所はマンションとなり、現在の場所に移築されました。
戦争は遠くなったようではありますが、高射砲陣地跡に今でも慰霊に訪れる元兵士の方がいらっしゃるということやその頃の不発弾が今でも発見されるなど、まだまだ戦後は終わっていないし、記憶を風化させてはいけないと思いを新たにしました。
15日には早いですが、大戦で亡くなられた方々のご冥福を改めてお祈りいたします。合掌
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コメント
こんにちは。
こちらでは、はじめまして。
調布、最近、探検しているスポットなので興味を持って読ませていただきました。
最近、調布飛行場わきの関東村に興味を持っていました。
(マラソンコースにするには単調でしょうが・・・・)
今の代々木公園・NHK放送センターのあたりは、ワシントンハイツといってかつて米軍家族住宅があり、東京オリンピックで選手村にするのに、日本に返還してもらったそうです。
その米軍家族住宅が、飛田給に移転してきたそうで、今の甲州街道と人見街道の間は、アメリカが広がっていたということで!!
70年代に米軍が撤退して、90年代に再開発されるまでジャングルだったそうです!
東京外語大の北側がまだ開発していないというので、行ってみました。(1周10分)
道路沿いに廃屋があったそうですが、今は台座の部分しか残っていませんでした・・・・・
投稿: Qたろの母 | 2008年8月14日 (木) 20時35分
掩体壕。。。初めて写真を見ました。
飛行機を隠すというから大きな物なんでしょうね~。
壕と言えば私は松本の本部を見たことがあります。
とっても大きいものですが、崩れて来ないか
冷や冷やしながら中を回りました。
ヘルメットをかぶって見学するのですが
土砂崩れのため?とその思いが恐怖を誘います。
投稿: たんぽぽ | 2008年8月15日 (金) 23時22分
Qたろの母さん、こちらでははじめまして(^-^)
関東村の家が残っていたんですか。ワシントンハイツの家は保存されて代々木公園内に1件残っていますが...調布、もっともっとディープです。
たんぽぽさん
それがそんなに大きなものではないんです。半分、土に埋まっているからかもしれませんが、飛行機自体が戦闘機のために運動性能優先でかなり小型だったようです。
投稿: 野川のカルガモおとーさん | 2008年8月16日 (土) 21時31分
野川のカルガモおとーさんへ
そうなんですか。。。あまり大きくないんですね。
これからは戦争のための壕などが
作られない世の中でいて欲しいです。
投稿: たんぽぽ | 2008年8月18日 (月) 18時09分