腰に違和感、走るのはぐっと我慢。
そこで、今日は前から行ってみたかった江東区猿江へ。
実は、私のブログ、毎年6月から7月にかけて「妙寿寺の割れ鐘」というキーワードでアクセスが急増します。烏山寺町の妙寿寺に関東大震災のときに火炎に包まれて割れた鐘があるのですが、どうもそれが某私立中学の地元研究の題材になっているらしいのです。
見学レポートをまとめるのにインターネットでちょこちょこと(^_^)という寸法みたいです。
この妙寿寺というお寺、もともとは江東区(そのころは深川区)の猿江にあって、隣が東京瓦斯会社(今の東京ガスですね)の工場。大震災でその工場の大火災で壊滅的被害を受けて、烏山に引っ越してきたという経緯があります。私が亀戸に勤めていたとき、昼休みに走って往復していた猿江の恩賜公園のすぐそばということもあり、割れ鐘のあった猿江の地に実際にいってみたいとずっと思っていました(中学生の諸君、フィールドワークというのはここまでやるのだよ(^_^)
最初に訪れたのは深川の図書館(ここは岩崎弥太郎が賓客をもてなすために没落大名の敷地を買い漁って作った大庭園の跡地ぜよ)へ。江戸から明治、震災前の大正、妙寿寺移転後の昭和までの古地図を照らし合わせて、古の深川・猿江の光景をイメージ。今の地図に江戸時代の地図を重ね合わせたのが上のカラフルな地図。左の白黒の地図は関東大震災直前の大正時代のものです。確かに妙寿寺の東隣は工場であることがわかりますし、今の猿江神社の道路を挟んだ北側一帯が妙寿寺の境内だということが分かりました。
深川区史や江東区史をとっかかりにいろいろな資料を
引っ張り出すと、割れ鐘は思いのほかお寺の近くで鋳造されていたことが分かりました。おまけに豪徳寺にもそこで鋳造された梵鐘が、九品仏には茶釜があることも判明。意外と繋がり深いです、世田谷と猿江。
今度は豪徳寺と九品仏にその梵鐘や茶釜を見せてもらいに行きたいと思っています。
そうそう図書館で涼んでもいられないので(^_^; 現地に移動。
暑い...(~_~;;;;
猿江の地名の起こりとなった猿江神社に詣でると、裏手(北側)の道路の向こう側に小さな祠。説明板を見ると、なんとその管理はいまでも烏山の妙寿寺が行っているのです。その昔、境内にあったこの祠も一緒に烏山に移転しようとしたところ、関わる人が次々に亡くなり、その祠だけはその場所に残したという...思わずお賽銭を上げて、お線香を手向けてきました。
大火災を起こした工場はマンションに変わってはいるものの、その敷地の一部には東京ガスの営業所や変圧所があったりして、土地のロゴスを感じさせます。妙寿寺の面影はまったくありませんが、近くの芭蕉が愛でた五本松を思い
浮かべて小名木川の橋から猿江町を眺めると、畑のなかに点在する大名の下屋敷と長屋の建ち並ぶ川沿いにこんもりとした境内の森の風景から、日本の明治の近代化を支えたセメント工場や瓦斯製造所、鉄鋼所などの工場が建ち並ぶ小名木川沿いの風景、さらに震災で燃え盛るガス工場や死者累々の川面まで浮かんでくる感じです。
さて、ここで、資料探しでこれを読んでいる中学生の皆さんに問題です。
1.関東大震災のときに火災に見舞われた妙寿寺ですが、コールタールによる猛火と割れ鐘の説明板には書かれています。なぜ、隣の工場にコールタールがいっぱいあったのでしょう? 現代はガスというと液化天然ガスが主流ですが、そのころのガスはどのように作っていたのでしょうか?
2.東京瓦斯会社(今の東京ガスです)の猿江瓦斯製造所ができたのは明治31年11月です。急増するガスの需要に応じるために新たに作られた製造所ですが、その頃の家庭でガスはどんな用途に最も多く使われていたでしょうか?
3.猿江瓦斯製造所の跡地はマンション・住宅やスポーツ施設などになっていて、2001年まではあるスポーツチームのメイン練習場でもありました。そのチームの名前はなんでしょう?
4.割れ鐘を造った釜六は、原料や製品の運搬に便利なように川(堀)のそばで鋳物を作っていましたので、その川は釜屋堀と呼ばれていました。今はその川を釜屋堀と呼ぶことはありませんが、公園の名前や通りの名前に「釜屋堀」の名前は残っています。さて、この川は今はなんと呼ばれているでしょう。
5.釜六の鋳物工場は明治になり廃業しますが、その跡地には日本の近代化のために大きな役割を果たした工場ができました。それは明治の実業家 渋沢栄一が設立した会社のひとつですが、どんなものを作っていた工場でしょう?
これらは、私が現地で見て、調べて知ったことばかりです。
先生と一緒に考えてね(^_^)
PS.ここまで読んでくれた中学生の皆さんには、余計なお世話かもしれないけれど、このページも読んで欲しいなあと野川のカルガモおとーさんは思っています。良かったら見てみてください。
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